7、念願のNHKテレビ出演
1991年日本気象協会に入職し、天気の勉強をより深めました。通勤電車では専門書を読み、先輩からは良いところを盗み、学び、教わりました。1994年には第一回気象予報士試験に合格しました。気象キャスターになるためには、プレゼンテーション能力も身につけました。録音機を持ち歩き、自分の声を吹き込んでチェックしました。初めていただいた仕事は「177天気予報」の録音でした。その後、民放やNHKなどの各局のラジオのお仕事をさせていただき、放送の経験を積みました。先輩が夏休みになると、代役で民放のテレビにも出演させてただきました。1996年4月念願のNHKおはよう日本気象キャスターとして採用され、夢がかないました。今となってはもう一つ、大変役に立っていることがあります。それは「教育」です。大学時代に学んだ”子供たちへの授業の方法”が、”気象情報を伝える方法”と同じだからです。わかりやすく伝える技術は、分野を問わず共通するものがあります。今後も小学校の教師の免許を持つ気象予報士として、活動を続けてゆきます。
6、気象キャスターへの道
このような研究をしているうちに大学4年になり、就職を考える時期になりました。大学ではもう一つ「教育」も学んでいましたが、私としては大好きな「天気の道」に進みたいという考えが強くなりました。そんなある時、恩師の山下先生が私にひとこと「君は気象キャスターに興味ないかね?」と声をかけて下さいました。私は、先生に対して一言も気象キャスターになる夢の話をしたことが無かったのですが、先生曰く「お前は向いているから」ということで日本気象協会の気象キャスター募集をしているパンフレットを差し出して下さいました。その時の鳥肌が立つほどの感激は今でも忘れません。そして、日本気象協会の面接を受け、就職試験にも合格することができました。恩師の山下先生のお蔭もあって、気象キャスターへの道に進むことができました。
5、恩師との出会い
大学では、やはり好きな天気の勉強に力を注ぎました。気候学ゼミに所属し、天気の論文や専門書を読んで発表したり、自分で論文を書いたりました。そこで恩師の山下脩二先生と出会いました。大学3年の時は、石川県の白山スーパー林道の大気汚染調査をして、道路を挟んで山側と谷側とでは谷側のほうが立ち枯れの木が多いことがわかりました。車の排気ガスは谷の方に流れてゆくことなどが原因ではないか、と結論をだしました。また、卒業論文では、エルニーニョ海域海面水温と台風発生との関係を統計的に調べました。エルニーニョ現象が発生している場合は、台風の発生する場所が日本から遠くなり、そうでない時は日本に近い場所で発生することがわかりました。エルニーニョ現象が発生している時は、台風のエネルギーの元になる高い海面水温の場所が日本から離れるためです。このように、山下先生の下、天気の勉強をすることが私は楽しくて仕方がありませんでした。
4、二つの道
結局、選んだ学部は教育学部でした。自宅浪人していると人のありがたさを強く感じることが数多くあったので、人間味あふれる仕事がしたいと思いました。さらに、教育学部の中でも天気のことを学べる大学を選びました。東京学芸大学教育学部には気候学を学べるゼミがあったので、第一志望校にしました。つまり、「教育」と「天気」と二つの道を選択したわけです。やはり好きなことを大学で学びたいという気持ちもありましたし、最終的に仕事を決定するのは大学で4年間学んでからでもいいのではないかと思いました。この「二つの道」を選んだことが後々の私の仕事に大きく影響を与えるとは、このとき知る由もありませんでした。こうして、一年間浪人したことが私の考え方に幅をもたらし、大学生活を送るための新たなパワーとなりました。 
3、寄り道

共通一次試験が終わり、二次試験の志望校を選択するときがきました。やはり、気象学を学べる地方の大学を受験しました。なんとか合格したものの”迷い”は消えませんでした。出した結論は、入学辞退と自宅浪人でした。もう一年じっくり考えながら勉強したいことや東京にも行きたいこと、さらに親にも迷惑をかけたくないということが理由でした。不安はありましたが、意外に楽しい日々が続きました。まるで学校帰りに道路脇の空き地で遊び、寄り道するかのように。誰にも左右されないという解放感は格別なものでした。家から眺望することができるあの山ってどんなところだろう?と、バイクに乗っては出かけたりしました。予備校に通う友人とは様々な議論をしました。どうして大学受験なんてあるんだろ?ひょっとして無駄なことなの?なんて考え出すと、ますます迷路にはまってしまいました。そうしているうちに、二回目の大学受験が迫ってきました。 

2、迷い

気象関係の学科に進むため、高校では理科系のクラスを選択しました。なのに全然勉強に身が入りませんでした。一方、中学の時から続けている陸上競技にはいっそう熱が入りました。中学時代後半のスランプから脱出し、自分の思うとおりのレースができるようになったからです。専門は800メートルと1500メートルでした。レースでは好位置につけておき、ラストスパートで抜き去るパターンを身につけました。まるで競馬のレースのように・・・。現在、競馬とマラソンが私の趣味となっているのは、中学、高校時代の陸上経験が影響しているのかもしれません。話を元に戻しますと、勉強に集中できなくなった理由は進路に迷いが生じたからです。果たしてこのまま気象の道に進んで空と観測器とのにらめっこをして面白いのだろうか・・、気象の就職先は気象庁以外にあるのだろうか・・、お天気キャスターになるなんて極僅かではないか・・などと。そうこうするうちに高校3年生の秋、阪神タイガースが優勝して受験が目前に迫ってきました。   
1.私が気象予報士になった理由
中学3年の卒業文集で「将来は、NHKの気象予報官になりたい」と書いていました。でも、私はすっかり忘れていて、NHKの気象情報に出演するようになってから中学3年生の時の担任が教えてくれました。私の方がびっくりでした。やはり昔から天気が好きだったんだなーと改めて思いました。心の奥底にあった潜在的な気持ちが夢を達成させたのでしょう。その動機となったのは、子供のころの自然豊かな環境でした。出身地の熊本県は梅雨時の降水量は全国でも指折りの多さで、傘に雨が当たると重たく感じるぐらいでした。近くを流れる日本三大急流の一つの球磨(くま)川は、溢れんばかりの濁流となり、大雨で授業が打ち切りになることがありました。こうして気象情報を見る機会も多くなり、強い興味を抱くようになりました。私たちの命にも関わることがある気象情報を伝える「お天気キャスター」に憧れを持つようになりました。