防災気象キャスターを志す方へ
防災気象キャスターとは、天気のことだけでなく、生命や財産を守る防災情報も伝えることのできるキャスターのことです。防災気象キャスターになるためには、気象予報士(防災士)の資格を取り、キャスターとしてのプレゼン能力を養う必要があります。さらに、実際に起こった自然災害の背景にあることや得られた教訓を学ぶことが大切です。
以下、私が子供の頃からの夢だった気象業界に入り、現在に至るまでの経緯を紹介いたします。お時間のある時に目を通してくだされば幸いです。
8、独立、そして今
日本気象協会から独立したのは2003年、気象予報士の地位向上と活動領域の拡大を目指したかったからです。独立後、力不足の私を支えてくださり、幸運にも様々なお仕事を頂いております。感謝の気持ちでいっぱいです。これからは、微力ながら皆様に恩返しをしてゆこうと思っております。具体的には、防災気象キャスターとして「防災教育に精力的な取り組み」をすることと、次世代の「防災気象キャスターを育成」することです。いづれも、教師の資格を持つ気象予報士+防災士として、今後、いっそう力を注ぐ所存です。私は子供のころに水害を体験したことがきっかけで気象の世界に入ろうと決意し、平成の初めから気象業界に長いこと身を置きながら様々な経験と多くの知識を得ることができました。気象予報士は”経験値”が重要だといわれます。先輩方のおっしゃっていたことが、今になってようやく理解できるようになりました。これらを若い人に引き継ぎ、次世代を担う優秀な人材を育成することが防災に繋がるものと思っております。そして、大学の恩師、山下脩二先生の教えでもある「現場を見よ」ということを実践し、自然災害の現場を訪れることをライフワークに掲げております。熊本地震や西日本豪雨などの被災地に訪問したのもこのためです。百聞は一見に如かず、現場から得られた教訓を皆様にお伝えすることも防災に繋がるものと思っております。これまではマスメディアの力と防災気象情報の高度化、インフラの強化などもあって自然災害が減少してきましたが、ソフト面でまだ足りない部分の一つが「防災教育」ではないかと最近の災害の形態から感じます。避難情報が発表されても避難行動に結びつかないのは、要因の一つが「防災教育」が不足しているからではないかと思います。こうしたことからも、私の人生の後半は、「防災教育」にも力を注ぎたいと思っております。
7、念願のテレビ出演
1991年日本気象協会に入職し、天気の勉強をより深めました。通勤電車では専門書を読み、先輩からは良いところを盗み、学び、教わりました。1994年には第一回気象予報士試験に合格しました。気象キャスターになるためには、プレゼンテーション能力も身につけました。録音機を持ち歩き、自分の声を吹き込んでチェックしました。初めていただいた仕事は「177天気予報」の録音でした。その後、各局のラジオのお仕事をさせていただき、放送の経験を積みました。先輩が夏休みになると、代役で民放のテレビにも出演させてただきました。1996年4月念願のTV気象キャスターとして採用され、夢がかないました。今となってはもう一つ、大変役に立っていることがあります。それは「教育」です。大学時代に学んだ”子供たちへの授業の方法”が、”気象情報を伝える方法”と同じだからです。わかりやすく伝える技術は、分野を問わず共通するものがあります。今後も小学校の教師の免許を持つ気象予報士として、活動を続けてゆきます。
6、気象キャスターへの道
このような研究をしているうちに大学4年になり、就職を考える時期になりました。大学ではもう一つ「教育」も学んでいましたが、私としては大好きな「天気の道」に進みたいという考えが強くなりました。そんなある時、恩師の山下先生が私にひとこと「君は気象キャスターに興味ないかね?」と声をかけて下さいました。私は、先生に対して一言も気象キャスターになる夢の話をしたことが無かったのですが、先生曰く「お前は向いているから」ということで日本気象協会の気象キャスター募集をしているパンフレットを差し出して下さいました。その時の鳥肌が立つほどの感激は今でも忘れません。そして、日本気象協会の面接を受け、就職試験にも合格することができました。恩師の山下先生のお蔭もあって、気象キャスターへの道に進むことができました。
5、恩師との出会い
大学では、やはり好きな天気の勉強に力を注ぎました。東京学芸大学の気候学ゼミに所属し、天気の論文や専門書を読んで発表したり、自分で論文を書いたりました。そこで恩師の山下脩二先生(ヒートアイランドの研究や世界地図を監修していることで有名)と出会いました。大学3年の時は、石川県の白山スーパー林道の大気汚染調査をして、道路を挟んで山側と谷側とでは谷側のほうが立ち枯れの木が多いことがわかりました。車の排気ガスは谷の方に流れてゆくことなどが原因ではないか、と結論をだしました。また、卒業論文では、エルニーニョ海域海面水温と台風発生との関係を統計的に調べました。エルニーニョ現象が発生している場合は、台風の発生する場所が日本から遠くなり、そうでない時は日本に近い場所で発生することがわかりました。エルニーニョ現象が発生している時は、台風のエネルギーの元になる高い海面水温の場所が日本から離れるためです。このように、山下先生の下、天気の勉強をすることが私は楽しくて仕方がありませんでした。
4、二つの道
結局、選んだ学部は教育学部でした。自宅浪人していると人のありがたさを強く感じることが数多くあったので、人間味あふれる仕事がしたいと思いました。さらに、教育学部の中でも天気のことを学べる大学を選びました。東京学芸大学教育学部には気候学を学べるゼミがあったので、第一志望校にしました。つまり、「教育」と「天気」と二つの道を選択したわけです。やはり好きなことを大学で学びたいという気持ちもありましたし、最終的に仕事を決定するのは大学で4年間学んでからでもいいのではないかと思いました。この「二つの道」を選んだことが後々の私の仕事に大きく影響を与えるとは、このとき知る由もありませんでした。こうして、一年間浪人したことが私の考え方に幅をもたらし、大学生活を送るための新たなパワーとなりました。
3、寄り道
共通一次試験が終わり、二次試験の志望校を選択するときがきました。やはり、気象学を学べる地方の国立大学を受験しました。なんとか合格したものの”迷い”は消えませんでした。出した結論は、入学辞退と自宅浪人でした。もう一年じっくり考えながら勉強したいことや東京にも行きたいこと、さらに親にも迷惑をかけたくないということが理由でした。不安はありましたが、意外に楽しい日々が続きました。まるで学校帰りに道路脇の空き地で遊び、寄り道するかのように。誰にも左右されないという解放感は格別なものでした。家から眺望することができるあの山ってどんなところだろう?と、バイクに乗っては出かけたりしました。予備校に通う友人とは様々な議論をしました。どうして大学受験なんてあるんだろ?ひょっとして無駄なことなの?なんて考え出すと、ますます迷路にはまってしまいました。そうしているうちに、二回目の大学受験が迫ってきました。
2、迷い
気象関係の学科に進むため、高校では理科系のクラスを選択しました。なのに全然勉強に身が入りませんでした。一方、中学の時から続けている陸上競技にはいっそう熱が入りました。中学時代後半のスランプから脱出し、自分の思うとおりのレースができるようになったからです。専門は800メートルと1500メートルでした。レースでは好位置につけておき、ラストスパートで抜き去るパターンを身につけました。まるで競馬のレースのように・・・。現在、競馬観戦とマラソンが私の趣味となっているのは、中学、高校時代の陸上経験が影響しているのかもしれません。話を元に戻しますと、勉強に集中できなくなった理由は進路に迷いが生じたからです。果たしてこのまま気象の道に進んで空と観測器とのにらめっこをして面白いのだろうか・・、気象の就職先は気象庁以外にあるのだろうか・・、気象キャスターになる人なんて極僅かでは・・などと。当時は気象予報士制度はありませんでしたからなおさらです。そうこうするうちに高校3年生の秋、阪神タイガースが優勝して受験が目前に迫ってきました。
1、私が気象予報士になった理由
小学校高学年で「将来の夢は気象台に勤めること」と書き、中学3年の卒業文集で「将来は、気象予報官になりたい」と書きました。その動機となったのは、子供のころの自然豊かな環境で過ごしたこと水害の体験でした。出身地の熊本は、梅雨期間(6月と7月)の降水量は全国の気象台では最も多く、傘に雨が当たると重たく感じるぐらいでした。近くを流れる日本三大急流の一つの球磨(くま)川は、溢れんばかりの濁流となり、大雨で授業が打ち切りになることがありました。父親の実家(旧坂本村)は球磨川の中流域にあり、床上浸水の被害に遭い、私も子供の頃は水害の後片付けを手伝いました。畳を取り換え、茶わんや床下、通路を消毒しました。水害地は衛生状態が悪いからです。こうして気象情報を見る機会も多くなり、強い興味を抱くようになりました。私たちの命にも関わることがある気象情報を伝える「気象キャスター」に憧れを持つようになりました。